2015年12月21日月曜日

「英語重視ばかりでは」という記事を読んで 私もヘンだなと感じていました

小学生の早いうちから英語の授業が始めるとかいう話を聞いて、漠然と何かヘンだなと思っていました。

ひとつめに、教育的に好ましいことなのかということです。九九でつまずきそうな2年生のわが孫を見ていて、また、英語という難題を抱えてやっていけるのかということが頭をよぎるのです。今日なんか、宿題の「8」の段をつまずいて、ちょっと訂正しようものなら、泣いて怒ってしまって、「もう四人も九九をセーハしたのに」と、消しゴムを投げるやら、「九九がんばりカード」を投げるやらで大変なんです。

ふたつめに思うのは、何で英語なんだろうかということです。英語が言語学的に世界の代表的な言語何だろうかと思うのです。昔というか、私が大学の頃、他の大学に入学した友人に「第二外国語は何をとった?」と聞かれたりしました。第一外国語は英語ということなんでしょう。その時もヘンだなと思いました。さいわい、私の大学では、第一、第二の区別はなく、2つの外国語、たとえば中国語とドイツ語を履修してもかまいませんでしたが。

みっつめに、それでなくても日本という国は、アメリカの属国のようになっているのに、言葉まで英語ばっかりになってしまったら、なんか植民地みたいだなと、そんなことを思ってしまうのです。

今日、北海道新聞で次に紹介する記事を読んで、なるほど、なるほどと思い、紹介します。この記事の中で紹介されている施光恒著「英語化は愚民化」(集英社新書〉を実は私も函館中央図書館から借りて手元にありますので、こちらも読んだら感想を書きたいと思います。
「風」 論説委員室から
「英語重視ばかりでは」
和田年正
北大植物園の宮部金吾記念館にあるそのノートは、見る者に強い印象を与える。
植物学の授業のノートだろうか。精密なスケッチ画ともに見事な筆記体の英文が連なる。日本の植物学の草分けで植物園の生みの親でもある、宮部博士の若き日の記録だ。
札幌農学校の2期生だった宮部や新渡戸稲造らは外国人教師から英語で受けた授業を筆記。寮で清書し、添削を受けて英語力を身につけた。
約140年前の明治初期。農学校を含め、日本高等教育のほとんどは英語など外国語で行うしかなかった。
それが明治20年ごろになると、日本語での授業が一般的になる。学術用語の翻訳が進み、外国人に学んだ日本人教師も育ってきたからだ。
宮部らの世代はいわば橋渡し役だった。明治の先人は母国語による近代化を選び、西洋文明を日本語の知識体系に変換することに成功した
ところが、最近の日本では政財界中心に、明治以来の近代化の歴史の逆を行くような、極端な英語化政策が推し進められつつある。
「グローバル化」を旗印に掲げ、「英語特区」構想や英語で抗議を増やす「スーパーグローバル大学」、さらに一部企業の英語公用化-。
これに警鐘を鳴らすのが政治学者の施光恒九大大学院准教授だ。著書「英語化は愚民化」(集英社新書〉は英語偏重の弊害を次のように説く
西欧の近代化は、ラテン語を解する特権階級だけの知識を各国語に翻訳したことが基礎になった。日本の近代化もまさにこれに重なる。
母国語でモノを考えることの大切さ、有利さは計り知れない。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は英語嫌いでも知られるが、中国や韓国を訪れて、母国語で専門書を読める日本の優位性をしみじみと感じたという。
だが、グローバル化とセットになった新自由主義経済は言語や文化を障壁と見なし、英語を覇権言語とする秩序を強いる。そうした序列の下では、日本人はいくら学習しても、英米人や英語が不可欠な旧植民地のインドなどにかなわない。日本人は英語能力により、知的・経済的に分断され、良質な中間層と知的格差の小ささなど特質を失う-。鋭い考察と指摘が続く。
学校でも「グローバル社会で求められる英語教育」が進む。確かに「聞く」「読む」「話す」「書く」の4技能すべてができるのは望ましい。
しかし、小学校での早期教育には賛否両論がある。
文部科学省は次期学習指導要領で2020年から小3で英会話を導入し、高学年は授業時間も倍にする方向だ。
心配なのは、英語以外の基礎学力の行方だ。全国学力テストで北海道の成績は改善方向にあるものの、基本的な読み書き計算に難があるとされる下位層(全国平均の下位25%相当)は、道内の小学生のなお3人に1人に上る。
道内の教育関係者は「下位層の子どもは先生の話すの多くを頭の中で漢字に換えられず、文章題も理解できていない」と指摘する。
小学校での英語教育を進めるには、日本語の読み書きなど、子どもの基礎学力の土台をしっかりさせることが不可欠だ。他の教科がおろそかになるようであれば、英語教育の拡充も意味を失う。(北海道新聞12月21日付から)

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