2016年2月23日火曜日

知内町のあれこれ、花井やすこさん応援記③

今日も知内町へ。路面の状態もよく、行き帰りの景色を楽しむことができました。

さて、木古内町と知内町の境にこんなものが建っています。「建有川寨門(たてありがわさいもん)跡」と書かれています。


拡大するとこんな感じです。どんなことが書かれているでしょうか。書き写すのは大変なので、知内町のホームページに書かれていることをそのまんま紹介します。


建有川寨門
現在も、木古内町との境界は一部、建有川になっていますが、松前藩の頃までは川の流れそのものが境界だったようです。ところが、蛇行する川の流域は、雨が降るたびに変わり境界がはっきりしないと言う不便さがありました。その為、これに因って紛争が起きないように安政3年(1856)正月に両村で取り交わした約束が、この書簡です。内容は、「例え降雨で川の流れがどの様に変わっても、お互い文句は言わない。」というもので、知内村の名主豊吉、年寄八右衛門、百姓代吉兵衛、梅吉の署名があります。
ここまでだけなら、川の2つ村境となっている川は氾濫をおこすので、それに代えて境界柱を建てたというだけの話ですが、単なる村境ではなかったんですね。
ところで、その頃幕府は蝦夷周辺へのロシヤの進出もあって、北辺警備のため安政2年蝦夷地を松前藩から取り上げ直轄統治とし、箱館奉行所を置いていますこの時、知内から乙部までの間だけは松前領として残し、他は全て幕府直轄としました松前領と幕府直轄地の接点になった建有川には警備のため寨門(砦)が設けられ、木古内側に箱館奉行所の番所、知内側に松前藩の番所があって通行人の手形、荷物の検査をしたと言われています。先の「為取替申境一札之事」はこの時、幕府領と松前領の境を明確にするために取り決めさせたものと思われています
単なる村境ではなく、幕府領と松前領の境だったんですね。興味深いです。

さてこの横には知内特産「ニラ」の看板がありました。


こんなことを楽しみながら花井やすこさんのところに向かうのです。

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